無知・無力・無能

今日、祈りの中で気づかされました。

自分がいかに、自分を喜ばすためにばかり生きているのか。

でも、そんな生き方をしてもむなしくなるばかりだということは、自分自身どこかでわかっている。でも、どうすればいいのかわかりませんでした。

私は主に祈ったのですが、それは、「あなたが私に何をしてほしいか教えてほしい」「私の生きている目的や意味、理由を知りたい」ということでした。

それでいくつかのことを祈りの中で示されました。

一番心に残った気づきは、「自分には何もできない」ということでした。

私は自分にできることを探していたのですが、むしろ自分が何もできないということを理解する必要があることを気づかされたのです。

たぶんきっと、それこそが信仰の入り口なのだと思います。

自分は無知で、無力で、無能だということ。何もない、何もできない。何も持っていない。何も知らない。どうしてこのような認識が大事なのかというと、神こそが力であるからです。神こそが全知、全能の方であるからです。私がむなしくなったとき、というか自分が空しい者だと気づいたとき、神ご自身が私を満たし、私のすべてとなって下さるのです。

自分でできることが何もないという気づきが何をもたらすと思いますか。感謝です。毎日生活すること、生きているということは、自分でできることではない。心臓は自分が動かしているわけではないのです。二本足で歩けること、思ったり考えたりできること、食事ができること、文字が書けること、その他たくさんのこと、そしてたくさんの恵みも、自分でできることはないとわかった瞬間から、神への感謝に変わるのです。

こう書いている私も何かよく知っているわけではありません。私の気づかされたことも、神の恵み、その神秘のうちのごくわずかな一部でしかないのだと思います。

 

不治の病?

もう10年以上も前になりますが、私はいわゆるクンダリーニ症候群といわれるような状態になってどうにもならなくなり、現在統合失調症というくくりのなかで治療中の身です。

その間本当にいろいろなことがあって、もうヨガとかもやってないですし、クリスチャンになりましたし、パワーストーンもカードもお守りもなんもかも捨てました。

でもですね、身体の不調も精神的な不調もずっと、今日まで長雨のように続いているわけなんですよ。

エスさまを信じて悔い改めたら全部癒されるんじゃないかとどこかで期待してました。私の信じ方が足らないのかもしれないし、主は全部の病を癒す方ではないのかもしれないとかいろいろ考えたのですが、どうにも納得がいかずにいました。

本当に、神様に答えてほしい、私はどうしたらいいのですか?

あなたはわたしを癒されるおつもりはないのですか?と。

ほんとに辛いんですよ、でも辛いって訴える権利は私にはないのかもしれない、私はある意味で報いを受けている、そう思うところもあります。だって自分から魔術の方面に走っていったのだし。でも、その扉がそんなに危険だとわかっていたら開けなかっただろうか?いや開けたかもしれない。そんな自分が怖くもなります。

私が開けてしまった扉は、ある意味で悪魔に通じる扉だったわけです。

でも、自分で開けられた扉は、開いてしまったらもう自分では閉じることができない。

扉を閉じられる方、鍵を持ってる方はイエス様しかいないと私は思っています。

でも今もって苦しみは続いている。どうしてなのでしょうか。

エスさまは私の苦しみを知らないのでしょうか。私のうめきは神様に届かないのでしょうか。

どうして神さまは私に後遺症のようなものを残されているのでしょうか?それが御心なのでしょうか?それとも私の祈りや断食?が足りなくてそうなっているのでしょうか?

神様、これも読んでおられると知っています。

私はあまりにもたくさんの罪をおかしてきたから、報いを受けているのかもしれません。それならそれでかまわないけれど、これ以上、悪魔とかかわりを持ちたくありません。あなたに救ってほしい。あなたに助けてほしいんです。ほかの誰かじゃない、あなたを信じているから。

それともこんなことを言うのはわたしのわがままなのでしょうか。

神様、私のからだの完全な癒やしは不可能なのでしょうか。御心ではないのでしょうか。確かに私は罪を犯しました。たくさんのこと、魔術も占いもニューエイジもやったし、ヨガも気功もやったし、でもそうしたものはもうしていません。したくもないです。でも時折引き込まれそうになるのです。それが怖いです。

どうか私の罪を許してください。あなた以外に誰が私の罪を許す権威がおありでしょうか。そしてみこころならばなんとか、私を霊的にも、肉体的にも、癒やしてください。

これ以上続くなら私は自死してしまいそうです。どうか助けてください。

エスさまのお名前で アーメン

 

祈れない苦しみの壁を壊すまで

実はですね、しばらく前に祈祷課題をいろいろと挙げて日々祈るということを本気でやってみようとした時期があったんですね。でも、早々に行き詰まってしまって、祈ることができなくなってしまったんです。

理由はいくつかあって、まず、自分は他者のために祈るけど自分のために毎日祈ってくれる他者がいないことに苦しみを覚えたんですね。まあこれは私のわがままというか、エゴといえばそうなのかもしれないんですが、一人孤独に毎日祈ることの難しさを痛感したんですね。あと、毎日、同じような祈祷課題について、同じような祈りを繰り返すことがみこころなのだろうかと疑問に思えたんですね。聖書にはくどくど祈るなという言葉もあるし、主の祈りだけを祈るべきなんじゃないか、そんなことを思ったところもあったのです。

あと、祈祷課題に挙がっているその本人が今本当にどんな状態なのか、っていうのが毎日たぶん変わっていくはずなんですが、こちらからは見えないんですね。本人のニーズや状況がわからないし、神様がどうされたいのか、そのみこころもどこにあるのかわからない、事態が深刻であればあるほどそう感じられたんですね。

そんなこんなで、心の奥になにかがつまったような感覚がずっとあって、どう祈ったらいいのか、祈るべきなのかということさえ、わからなくなってしまって、表面的な日常生活は普通にしているのですが、信仰的にかなり辛い状況というのが続きました。こうしたことを他の人にも相談できずにいました。

でも、昨日主の見えざる促しがあり、家族のために祈ることを久しぶりにしたのですが、そのとき、ふと心から沸き上がったのは「神様、あなたが家族を救ってくださることを信じて感謝します」という言葉でした。そして思い起こしたんです。イエス様が公生涯でどのような祈り方をされていたのかを。

それはいわゆる「先取りの祈り」というのかな?つまり、願い求めることがすでにかなえられたと信じて感謝する祈り方だったんですね。もちろんゲッセマネの祈りのように、父なる神の御心を第一に求めるのが原則だと思うのですが、そのうえで、神様に信頼して、願うことは神様がすでにご存じであるから、それをかなえて下さることを信じて感謝するという祈りというのが、祈り方の一つのお手本としてあったことを思い出したんです。

これを思い出すまで、出口の見えない暗いトンネルを歩いている気分でした。

たくさんの、それも深刻な、祈祷課題があって、それに押しつぶされそうな自分がいて、神様に祈る時も、こうなんです、こうしてください、みこころならば、というような祈りに終始するばかりでした。しまいには胸がつまって祈れなくなり、祈ること自体が苦しくなり、具体的なとりなしの祈りをやめてしまい、ただ主の祈りをとなえることしかできない時期が続いていました。

でもやっと祈り方が分かった気がします。神を信じ、感謝することが祈りの骨格なのかもしれないと思いました。

 

 

愛についての気づき

今日、はたと気づいたわけです。

私は誰からも愛される必要はなかったのではないか、と。

ただ、愛する必要があるのではないか。と。

愛されるために愛するのなら、その愛は条件付きの愛です。

傾聴について学んでいく中で、これは、愛し方の一つなのではないかという思いに至っているところですが、

なんというか、うまく言えないのですが、心がフラットになったのです。

私は未熟ですから、愛されたいとずっと願ってきたわけなんですが、誰かに愛されたいと願っている限り、愛されるため、愛を確かめるための行動をとってしまう自分というのが、終わりなく続いていたのです。

そういう自分の呪縛を解く言葉というのが、「私は誰からも愛される必要はない」という言葉だったわけです。でもそれだけではなくて、「私は愛するために生まれてきた」というところとセットであるわけです。この言葉。

とてもシンプルです。無償の愛を注がんとするために、その愛の学びのために私は生まれてきたわけです。だから、今までの、毛の抜けるような?苦難というのも、納得なわけです。これまで愛の価値観というのが私の中で逆転していたんです。愛されることが価値あることなのだと思っていたんです。愛されるために生きようとしていた人生があったのです。でも、愛するために生きるということが私の真実でした。それは愛されたから愛するのでも、愛されたいから愛するのでもなく、愛するために愛するのです。もちろん私は神様じゃないから、私の注ぐ愛には欠けがたくさんあるでしょう。でもそれでもいいから、愛するんです。私の人生は自分を捨てるための旅でした。自分自身というものからの解放を望んでいたのです。そしてある意味で私は今日、私自身というものからある種の解放を覚えました。

答えは簡単でした。愛されることを願うのをやめて、愛することに心のすべてを注げばよかった。しかしその道のりは平たんではないです。

 

 

 

冷静になれない自分を見る自分

今日は朝から夫にイライラして心の中で暴言を吐いてしまったのです。

実際に言わなかったのが不幸中の幸い。

夫の精神状態が良くないと私もイライラしてしまうことがよくあるのです。

どうも夫という近すぎる距離にいる関係の中では冷静になれない自分がいて、未熟者だなあとしみじみ思います。

そして一昨日よんだ精神対話士の本に書かれていたことを思い出しました。

人の話を聞いて涙を流すことはあっても、感情移入しすぎないように、いつも「自分を見ている自分」をつくり、二重の自分がいないといけない。と。

今の私にもそれが必要な気がしました。笑っている時、泣いている時、怒る時も、そういう自分を見ているもうひとりの自分が必要なのだと。

夫との関係は本当に色々と悩みが絶えないですが、冷静になれない自分を見る自分がいたら、また別の世界が見えてくるかもしれません。

結婚するというのは本当に大変なことで、するまでも、してからも、ですが、何の関係もなかった他人同士が夫婦という、家族という関係を作っていくわけですから、難しいのは当たり前なんですよね。お互いが配慮したり、歩み寄ったり、尊重したりしないといけないんです。そうでなかったら、分裂するか支配の関係を生むだけなんです。

ただ、夫婦の両者がそれを理解したり、行動したりできるかというのは別問題なんですよね。それが難しいところで、俺に気を遣わせるな!とか、なんで私ばっかり頑張らなきゃいけないの、とか、なってしまうこともある。悲しいけど、愛し合って結婚したはずなのに、気づいたら憎み合っているなんてことは、珍しい話じゃない。

私自身、傾聴を改めて学んで、自分がいかに自分のことしか考えてこなかったかということを明らかにされた気持ちなのですが、その中で、良い意味であきらめがついたし(夫に対する)、私は自分が理解されようとばかりしていたけど、もうそれはやめて、ただ目の前にいる人を理解するために生きようと、そう決意したところはあります。

ただ、決意はしたのですが、実践がすぐに完璧にできるはずもなく、失敗したり、間違ったりしながら生きていくしかない。

 

 

自分を捨てるということ

ずっと、聖書でも書かれていた「自分を捨てる」ということについて、どうすればいいのかわからなかったのですが、傾聴について改めて学ぶ中で、自分の捨て方というか、自分を捨てるということはどういうことなのかということを思いめぐらしたわけです。

私のたどり着いた結論というのは、まだ結論と言えるのかはわからないけど、すべての人に対して、傾聴的接し方で接していくというのが、自分的な、自分の捨て方なのかなと思ったのです。傾聴では、話し手である相手が主人公、王様なんだと学びました。

自分を捨てて相手を主人公にすると聞くと、主体性のない生き方のように聞こえるかもしれませんが、そうではなく、主体的に自分を脇に置いて、相手を受け入れ、理解しようとすることだと思うんです。これは誰かから強制される生き方、やり方ではありません。自分で決断して行うことです。

ただ私はクリスチャンですから、神様の言われることに第一に従いたいし、神様の言っておられることが何かあるならそれをまず聴きたいと思います。ですが、むしろ神様は私の悩みを聴いて下さる方であり、助けて下さる方であったりします。私自身神様のことが大好きですが、むしろ神様のほうが私のことをずっと深い愛で愛してくださっているのだと思います。

私はこれまで、色々と悩み、色々な方法を試したこともありましたが、結局、他者と分かり合えないというところに行きついてしまって、もう完全に自分をシャットアウトして、神様とだけ関われたらいいとさえ思っていたのですが、やっぱりそれは違って、むしろ人を愛するようにと神さまは言われているわけで、難しいことも多いかもしれないけれど、他者理解の道を歩みたいと思ったのです。というか、自分にできることってこれくらいしかなかったんですよね。手先も器用じゃないし、そんなに頭もよくないし、これといって突出してできるということがあまりなかったんですよ。

でも、人の話を聞くのは好きだったんです。

ただ、聞くことが得意っていうのも変な感じがしたし、こうした「受動的」なことって見逃されることが多いものですが、あるとき、学生時代に、授業を聞いていたとき、先生から、「君の聞く態度すごくいいね」って、ほめられたことがあるんですよ。そんなほめかたある?ってそのとき思いましたが、私の中でずっとそれは残ったんですね。で、ずっと後になってカウンセリングの資格を取って見たりもしたんですが、私自身が精神障害を負ってしまったりもして、もう職業としてはそうしたものは目指せないなあと思っていたのですが、職業になんてならなくていいとやっと思えるようになりました。私の今の目標は、誰に対しても同じような愛で接することができるようになるということなんですね。誰であっても分け隔てされるべきじゃないとわかったんです。どんな人の声も、無視されるべきじゃない。誰が偉いとか、誰が劣ってるとか、そんなことないんです。皆大切で同じだけの重い価値のある一人なんです。私はそれを大事にしたいと思っています。私の個人的な価値観ではありますが、これは譲ることができませんでした。

 

 

傾聴

傾聴の本を改めて読み、やはり自分のやりたかったことはこれだと確信したところです。

すごく勉強になります。私はこれを知りたかったのだと思いました。

でも、傾聴ってすごく集中力と忍耐力がいることで、誰に対しても傾聴的に接するというのはすごく難しいことなのかもしれないと思いました。

でも、それがしたいわけですよ。バカかもしれないけれど、それでもいいから、他者理解の道を歩みたいわけですよ。一度はあきらめた道です。結局自分と他者とはわかりあえないのだと、背を向けて逃げてたんです。

でも、自分はたぶんこれをするために生まれてきたんだと思ったんですね。前々回にも書きましたが。